菊池一久

通常の健康コラムはお休みして、医事評論家の菊池一久の戦時中の体験を今日は掲載いたします。

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2004/03/22

2.戦争

〜私の小さな体験〜

戦争−私の小さな体験から

19、20世紀は、近代化した国家対国家の武力衝突の戦争に明け暮れた。21世紀に入り、国家対国家の戦いはなくなり、国家対テロという新しい戦争の世紀だと思っていた。

ところが、米英とイラクの戦争が起こった。どんなに大義があろうと人が人を殺す行為は、最大の犯罪行為である。残念でたまらない。

戦争は弱者に犠牲を

近代戦の合理的な戦術のことは専門家でないので何もいえないが、私は小学生高学年から中学2年まで、第二次世界大戦に翻弄され、戦争のことをこのからだで受け止めた。

昭和20年8月15日の敗戦は、東京の焼け野原と化したバラック小屋で父と2人で迎えた。

母、妹、弟たちは、福島県の相馬市に疎開していた。

小学校の時、多くの友は、親と離れて集団疎開した。私は、東京に残った。

30代から50代の健康な男性は、兵隊になった。学徒も出陣した。親と離れた小学生の集団疎開だが、国家は子供を護るというが、親が戦死して、家庭が崩壊しても国家が存立すると思っていたのか。

中学生になると、数学や英語の勉強もしたが、軍事教練の特訓である。

もう、兵隊として国家によって組み込まれたのである。国家は、私たち中学生など戦力にならないことは承知の上で、戦意をやたらと高揚した。無責任である。

また、白い布に墨で、住所、氏名、年齢、血液型を明記して、胸に縫いつけることが義務化された。

ここで驚いたのは、戦後になって、この血液型検査に多くの間違いがあったことだ。A型、B型、その試薬と血液凝固の間違いがあった。

それにしても、それだけの血液の保存がされていたかどうかは疑問で、負傷しても、50歳を超えた人には手当はしないのではないかと噂され、小学生も後回しにされるといわれた。

なんのための集団的な血液型検査だったのか。国家の国民に対する一つのジェスチャーだったのかと、今にして思う。国家は、弱者である庶民に、責任をとる気はなかったのだ。

学校教育では、大東亜共栄圏の教科で、教師は世界地図を掲げて、日本は朝鮮半島、中国、東南アジア諸国の指導的立場になるのだと、徹底した民族的エリート教育をした。

そして、大戦が昭和16年12月8日に開戦されたが、その数か月前に東京日々新聞(現在の毎日新聞)の第一面に、大きな写真で、アメリカ太平洋艦隊がハワイ真珠湾基地に集結した記事が報道された。どの軍艦も大砲の砲身が私たちに向けられ、大きな恐怖感を覚えたことが今も脳裡に深くきざみ込まれている。「アメリカと戦争するなんて、とんでもない」と父が発言した。

東京は大空襲で焦土となった

昭和20年に入り戦況は不利となり、サイパン、硫黄島の玉砕で、アメリカ軍はそこに大型の航空基地を建設、本格的な東京への爆撃がいわゆる大型爆撃機B29によってなされるようになった。

私は、現在の東京・新宿区で、東京女子医大と早稲田大学の中間に位置する寺院の多い住宅街に住んでいた。

東京大空襲は、3月10日、江東、墨田、中央、台東、荒川区などが焼夷弾によって焦土となった。4月13、14、15日は、豊島、文京、荒川、北、新宿、港、千代田、大田、目黒、品川、世田谷などが攻撃された。この時私の家は焼けなかったが、夜間の大空襲は、多くの照明弾によって昼間のように明るく、火は家の近くまで燃えてきており、ものすごい風が吹きまくった。その猛火に追われて多くの人々が避難してきた。

しかし、5月24、25日の大空襲で、私の家は猛火のなかに崩れ、私は懸命に逃げた。途中、区が設置したトンネル型の防空壕に多くの人々が避難したが、全員が猛火のなか、窒息死をした。多くが老人、女性、子供たちだった。

資料によると、24、25日で来襲したB29は、およそ1000機にも及ぶ。投下した焼夷弾は、およそ6万発になる。被災者は80万人で、死傷者は2万人を超えたとある。よく生き残れたものだと思う。

通学途中、戦闘機の機銃掃射をくらったりもした。戦争は残酷なものである。結局は、非戦闘員である一般市民が大きな犠牲となったのである。国家対国家の戦争は、一般市民を巻き込んで行われるのだ。

戦時被災証明書を貰ったが、なんの補償もなく、せっせと購入した戦時国債は紙くずになった。

戦争に負けるということ

敗戦となったが、私は焼け残った校舎で勉強をした。数学、理科、英語など。食糧不足は深刻で、制度として配給制度はあったが、ろくな配給はなかった。焼け跡を農地にして、イモ、カボチャ、小麦などを耕作した。そんな中、進駐軍が入ってきたが心配していたトラブルもなく、ほっとした。

父の友人で、公衆衛生の仕事をしていた医師は、米軍に呼ばれ、米軍進駐前に、米軍の相手をする女性を確保せよとの命令をうけた。吉原や新宿、大森などの売春街で地方へ帰っていた娼婦たちを集めるのが大変だったという。そしてこれら娼婦の検診の実施だ。街には、街娼が立ち、時々、米軍がトラックできて強制検診を実施し、街を歩いている一般の女性もこの検診に連れていかれたりした。

私たちは、腹を空かしていた。米軍の残飯を払い下げてもらい、それをシチューにして、新宿の街で食べさせる露天ができたりした。動物脂肪あり、肉もあり、なかには、タバコの吸いがらもあった。しかし、食べた。生きねばならなかったからだ。経済は超インフレで、毎日毎日、品物の値が上った。宮城前には、米よこせのデモ隊が押し寄せた。

娯楽の映画は、停電が多く、楽しむのは大変だったが、アメリカ映画だけはなだれをうってやってきた。

チャンバラ映画は禁止されたが、ピストルで殺しあう西部劇は大いに上映された。相撲も白いパンツをつけ、その上にまわしをつけるなど何もかもアメリカナイズされ、日本語よりローマ字を使用することがなされ、ローマ字の教育をうけた。

明日に向かって生きる

貧しく、アメリカナイズ化されたが、私たち中学生は、現在は何もないが将来は必ずある、そのために学ぼうと猛勉強をした。

アメリカに負けても日本人として、彼等に負けない学問を、技術をと、教育をうけ、学ぶことで、必ず明日がくると信じて、ボロ服、空腹のなかがんばった。

こうして企業力をつけ製品を輸出して外貨を稼ごうと、企業国家を目指した。ベトナム戦争時代、ある営業マンはベトコンの部落に命がけで粉ミルクを背負って売り歩いた。

私たちは少年の頃から生涯が戦争だったと思う。今日も直接銃こそとらないが、経済至上主義実践の戦闘員である。

しかし、なんとかして、平和を維持し、この尊い命を守りぬくための、人間としての戦いをしなければならない。もうこれ以上この地球を破壊してはならない…。満開の桜の木の下で、ただ平和を願うばかりだ。

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